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他人を理解するなんて無理?

「人を理解する」って、そもそもどういうことだろう?

私たちは同じ景色を見て、同じように感動し、同じ言葉を使っていても、本当に同じものを見ているのか?という問いには、誰も答えられない。

たとえば、「青」という色を見たとき、あなたと私が同じ「青」を見ているとは限らないし、それを証明する方法もない。
鏡に映る自分の顔や写真の顔を自分の顔だと認識しているが、友人Aが見る私の顔と友人Bが見る私の顔、友人Cが見る私の顔、犬Aに見えている私の顔、犬Bに見えてる私の顔は全部が同じ私だけど、果たして本当に同じ顔が見えているとは限らないし、誰一人、どんな技術の進歩があっても、それを証明することは、不可能なんですよね。

ということは、結局、人は誰かを理解することなんてできないのでは?

この問題に関係する哲学的概念に「クオリア(qualia)」がある。
クオリアとは、「個人が主観的に感じる質感や経験」のことを指す。

たとえば、

・私が感じる「赤」と、あなたが感じる「赤」は同じものなのか?
・コーヒーの苦みを、私とあなたは同じように感じているのか?
・「痛み」は、他の人にとっても同じような感覚なのか?

このように、「感覚や経験は個人ごとに異なるため、完全に共有することはできない」という考え方がクオリアには含まれている。

フロイト・ユング・アドラーの「他者理解」

心理学の巨匠たちも、「人を理解する」ことについて、それぞれ違った見解を持っている。

フロイト:「無意識を探ることで人を理解する」
フロイトは、人の行動や思考の多くは無意識の中に抑圧された欲望やトラウマによって決まると考えた。
「本当の理解」とは、表面的な言動ではなく、その人の無意識の奥底を分析し、解明すること。
でも、それは分析であって、完全な理解とは違う。

ユング:「集合的無意識を通じて、人と共鳴する」
ユングは、「個人的無意識」だけでなく、「人類全体に共通する無意識(集合的無意識)」があると考えた。
だから、完全な理解はできなくても、人は共通のシンボルやイメージを通じて「なんとなく分かる」という感覚を持つことができる。
でも、それは同じ経験をしているわけではなく、あくまで共鳴にすぎない。

アドラー:「理解できないことを前提に、どう関わるかが大事」
アドラーは、そもそも「人は主観的な世界を生きている」ため、他者を完全に理解することは不可能だと考えた。
でも、それを前提にしたうえで、「じゃあどう生きる?」 が大事だと説いている。
「理解し合えないからこそ、どう関わるか」が問われる。

私は、自分を完全に見失って人生どん底になって、もう何をどうしたらいいかわからない!ってなった時、アドラーの考え方で自分と向き合いながら人生を進めてきた。
なので個人的にはアドラーの考える他者理解の概念を採用している。

誰の何が正しいとかでなく、自分は何をどう捉えたら一番楽しっくりくるか、つまり、いかに自分が楽に生きられるか?で、自分の人生に取り入れるかどうか、活用してみるかどうかを自分で決めて試してみればいいと思っている。

「同じものを見ている」とは限らない

私たちは、同じ景色を見ているようで、実は違う世界を見ている。

たとえば、

・同じ映画を見ても、感じ方はバラバラ
・同じ出来事を経験しても、記憶に残る部分が違う
・同じ言葉を聞いても、解釈の仕方が違う(辞書があるのに、同じ意味でも解釈は違うよね。笑)

これって、私たちの「見えている世界」が、それぞれ違うことの証拠で、
だからこそ、「この人はこう思っているはず」「私の気持ちを分かってほしい」と思うのは、そもそも無理なことなのかもしれない。

それでも、寄り添うことには意味があるとは思っている。

完全に理解することはできない。
だけど、「理解しようとすること」「寄り添うこと」には意味がある。

・言葉にならない想いを、受け取ろうとする姿勢
・「分からないけど、一緒に考えたい」と思う気持ち
・お互いに違うことを前提に、どう関わるかを大切にすること

人と関わるとは、同じものを同じように見ることではなく、「違いがある前提で、どう共に生きるか」なんだと思う。

AIがどれだけ進化しても、この「エネルギーのやりとり」「寄り添う感覚」までは再現できない。
だからこそ、私たちは「そもそも理解とは何か?」「私はどう生きたいか?」「私はこの他者とどのように関わるのが自分の人生において良いのだろうか?」を問い続けることが大切なのかもしれない。