ラム(愛犬)がいなくなって
1ヶ月が経過する。

愛犬がいなくなった。

そう書くと、たぶん多くの人は
「亡くなった」「死んでしまった」
そう受け取ると思う。

事実として、
ラムの心臓は動いていないし
呼吸もしていないし
自分で体を動かすこともできない。

だから、生物学的には
「死」なんだと思う。

でも、どうしても
「存在がなくなった」という
感覚にはならなかった。

ただ眠っているだけに見える
私がラムと思っている存在は
確かにまだここに存在しているし

何がいなくなったという
ことになるのかがわからなかった。

悲しくないわけじゃない。
寂しくないわけでもない。

会いたいし、触りたいし、
できるならまた一緒に生きたい。

だけど、それとは別に、
私の中で、別の思考が立ち上がってきた。

「死んだ=存在が消えた」って、
果たして本当なんだろうか?

私たちは当たり前のように
「死んだら終わり」
「もういない」
「手放さなきゃ前に進めない」

そう言う。

でも、それって
どこまでが事実で
どこからが“前提”なんだろう。

心って、どこにあるんだろう。

取り出して見せられる
実態のあるものなんだろうか。

いや、ないよな。

悲しい、寂しい、苦しい。

そういう感情は確かに
私の中で常に起きているけど
それ自体は「現象」であって、

どこかに“心”という実体が
入っているわけじゃない。

じゃあ私たちは、
何を「心」と呼んでいるんだろう。

心が存在しないなら、
「私」は何でできている?

最近知った考え方に、
「心は存在しない」というものがある。

不安、悲しみ、怒り。

それは、“心という箱”の中に
入っているものじゃなくて、
脳や身体で起きている現象に
名前をつけているだけ、ということだ。

それを聞いたとき、
妙にしっくりきた。

じゃあ、
「私」って何なんだろう。

肉体?
脳?
意識?
それとも、その全部?

もし「私」が脳の情報処理の結果なら、
肉体が今の形じゃなくても
私は私として存在できるのかもしれない。

そう考えると、
「存在」という言葉が
ぐらつき始めた。

ラムは、本当に
「いなくなった」のか?

ラムの体は、もう動かない。
それは事実。

肺がうまく機能しなくなり、
呼吸ができなくなり、
生命を維持できなくなった。

それは、体の内部で起きた
物理的な問題だった。

もし、すべてが正常に動いていたら。
もし、体に問題がなかったら。

ラムは今も、
ラムのまま生きていたはずだ。

そう考えると、
「存在が消えた」というより
「動けなくなった」
「プロセスが止まった」
そう表現した方が近い気がしてくる。

じゃあ「存在」って、どこまでを指すんだろう?

・動いていること?
・反応していること?
・誰かと関係を持っていること?

それとも
・構造が残っていること?
・情報が失われていないこと?

私は今、
この問いの入り口に立っている。

答えはまだ出ていない。
たぶん、すぐには出ない。

っていうか、別に
答えを出す気もあまりない。

けど、
「分からないから考えない」
にはできなかった。

気になりすぎて。
おもしろすぎて。

ずっと思考していたいのだ。

仮説を立てて検証をして
本当はどうなんだろう?を
ずっと探求していたいのだ。

私は答えを出そうとは思っていない。

ただ、
愛犬との別れをきっかけに

「存在とは何か」
「死とは何を指すのか」
「私たちは何をもって“生きている”と言うのか」

その問いを、
考えている途中のまま
正直に書いていこうかなぁと思っている。

このブログは私のサイトで、
私のサーバーだからね。

誰にも何にも気にせずに
書きたいことを書きたいように書く。

この話の次の記事は
「脳・身体・意識は、
何が違って何を担っているのか」
そこからもう少し掘ってみようと思っている。

これは悲しみの整理なわけでもなく
前向きになるための話でもない。

ただ、私がこのように
考え始めてしまった、という話。

この世界は、本当に、おもしろいね。